2011_05_04 Y.Utsunomia

 発注していたγ線計数管が到着したが、梱包を解き現物を手にした途端、様々なことが脳裏を駆け巡った。

 この管は1966年に中華人民共和国で製造され、この国の核開発に大きく貢献したモデルと考えられる。

 サイズは直径23mm、全長は215mmにも及ぶ大型管で、大型であることは即ち高感度であることになる(正しく動作していれば・・)。ガス電離式の検出率はおおよそ体積に比例する傾向(体積とは円筒型カソードの内容積)があり、その数値は、1cc(ccはcubic centimeter=立方センチメートルの略)あたりバックグラウンドで3cpm~4cpmになる。

 通常のネオンやアルゴンなどの希ガスの電離チャンネルを利用した計数管では、対象の線種に関してそのほとんどすべてを拾うことができるため、このように「単位容積あたりのカウント数」がおおよそ一定となる傾向がある。

 SbM20は約7.1ccあるので、21~28cpm。このJ408γは有効管長20mmφ×150mmなので47.1ccにもなり、バックグラウンドで141~188cpmあることになるが、データシートによると80cpmで、実際に動作させてもおよそその程度になる。おそらく管の材料のガラスの材質か厚さの問題でロスがあるようだ。

米国製の同様の大型管D-22では実測で120cpm程度あるので、ガラスの材質や厚さによるロスがD-22では少ないのだろう。この違いはγ線主体のJ408γとβ線+γ線のD-22の違いとも言えるだろう。差し引きすることで線種判定ができることを示している。

 CI-3BGのバックグラウンドが異様に低い原因は、管は大きいのだが有効管サイズが中心部分のコイル状の部分のみなので2mmφ×5mm程度と小さく容積は0.0157ccで、0.047~0.062cpmがバックグラウンドということになる。この容積はD3372の0.3ccよりもはるかに小さい。D3372はサイズのわりにカウント数が大きいことになる。

 ネット上の販売サイトによると秋月のキットのD3372と交換すると、3倍程度に感度が向上・・のようなことが書かれているが、D3372のプラトー電圧をそのままCI-3BGに印加すると明らかな過電圧で、到底正常な検出状態とは言えないだろう。

 J408γのプラトー電圧はSbM20とほぼ同様なので、そのまま入れ替えることが可能のようだ。とりあえずアノード抵抗は20MΩ程度にしておけば、多少の延命ができるだろう。

 購入して使用する場合は、アノードとカソードを間違えないように。金属円筒につながっている方がカソードなので、じっくり構造を観察しよう。

 やや出力が低い傾向があるので、負荷抵抗は100KΩから200KΩに変更した方がよいかもしれない。

 また、時代から考えて、クエンチングが有機ガスの可能性があり、そのため寿命には気をつける必要がありそうだ。それ以前に衝撃で壊さないように気をつけなければ・・・・・・・・・・・・・・・・。


6月24日追記

 クエンチングガスについて不明であったが、Extremefctという方が液体窒素にJ408γを入れて、極低温気体凝集(クライオ凝集)によりハロゲンガスであることを示されています。

氏によると白(炭化水素やアルコール)ではなく、茶色なのでハロゲンなのでは・・・という指摘なのですが、茶色に凝集ならおそらく臭素であるようにも思えますね。ヨウ素では紫がかっているし塩素なら黄色がかっている(正しいですか??)でしょうから。フッ素は使用されません。

http://www.youtube.com/watch?v=lAKoinGDMEU (Extremefct氏のyoutubeより引用)

動画ではのどかな昼下がりの縁側を思わせる音や、平和なスズメの声が切ないです。そんな庭先に液体窒素(沸点-196度)入りの紙コップがあるなんて、なんという構図・・・・割れないようですね。

氏は慎重に管を液体窒素に投入しています。熱膨張率が一定以上あると、慎重に突っ込んでも管にひびや破損が生じることがよくありますが、一説にあるようにこの管はカリウム入りの低熱膨張の管材なのかもしれませんね。ガラス断面の着色具合である程度の判断ができるらしい。

緑ではソーダ(ナトリウム含有)、黄色ではカリウム、などのように。キャップ方向から見通してみると、確かにやや黄色っぽい気もするが・・。

とりあえずカウント回数はあまり気にせずに使えるということのようです。


                                                          「J408カソード写真」

走馬灯のごとく私の脳裏を駆け巡ったのは、ガラス細工でもガスの組成でもない。付属しているデータシートだ。中国製造なので中国語のように見えるが、どこか不自然。よくよく筆跡や数字の書き方、図や単語の並びなどを見ると、おそらく日本人の思考によって日本人の手によって書かれたものではないかと思える。

私がそう思うには理由がある。母は広島大学にいたが、終戦当時K大付属の大津の試験場にいたため原子爆弾の直接的被害を受けずに済んだが、当時の学友のうち何人かは核物理の研究者で、その影響もあってかY研究室へも出入りしていたらしい。もちろんYはその後にノーベル賞を受賞するのだが、研究室は極めて優秀で進歩的な人材であふれていたらしい。

しかし終戦後そのような優れた人材を活用する場は大学の中にも無く、近隣諸国からのスパイともスカウトともつかぬ者たちが徘徊していたらしいが、その誘いに乗り友人の何人かは大陸へ渡ったという。'64年の核実験のときには、その経緯を正座で聞かされ(なぜ自分が説教されるのか、そのときにはよく分からなかったが)、'67年の水爆実験ときは泣いていたことを覚えている。

よほど親交が厚かったのか、書簡の往復もかなりあったようだが、'60年以前に検閲のためか核物理の友人は行方不明、消息は同時期に渡った生物学の友人経由でしか分からなくなったらしい。母は断言していた。この実験の成功はXXや△△の業績であると。これに関連する話題の記憶はいくつかあるが、常に「他言無用」であった。

故に関連機材の製造に日本人が深く関わっていたことは疑いようがない。なぜなら当時の中国にそのような技術基盤も学問的基盤も存在しなかったからだ。

何だか顔も知らない両親の友人に出会って、自己紹介されたような気分。私は恐縮するしかない。