科学者は、呪いや祟りという言葉を「非科学」の象徴として、今日まで忌避してきた。
その立場から、放射能とは核物理における事象のひとつに過ぎないことは常識とも説明する。
その性質が幾分風変わりで、人間の五感には探知しにくく、また肉体の受ける影響が経時的なものが多いが、科学はその因果関係について、確率論を盾に積極的に明示的に説明しようとしていない。
そのくせその特異な性質を利用して社会を潤わせている。 確かに有益な一面があることは確かなのだが、こうむる不利益について未解決な部分が多々あり、未解決を未解決なまま利用のみ継続している。
例えば核廃棄物であるが、国家として原子力を導入するにあたり、2000年ころまでには効率的処分方法が、確立あるいは確立の目処が立つので導入、という「見込み」で可決した経緯があり、しかもその目処が立たない場合、白紙撤回するという条件つきであったはずだ。
この点について科学は要求に応えていないし(まさかその答が「もんじゅ」とは言わせない)、汚染された領域を除洗する高率的技術も開発されなかった(これからイスカンダルへ取りに行くのでもあるまい)。
科学技術のふがいなさは言ってもしかたのないことなので(現状が結果だからだ)、白紙撤回の条件は出揃ったことになる。大きすぎる代償だが、いたしかたないだろう。
もうひとつ重大な犯罪がある。教育を積極的に怠ったことだ。馬に乗るには馬の後ろから近寄ってはいけないことは最初に習うことであるし、スキューバ・ダイビングを習えば最初は耳抜きだ。
今、我々は鼓膜は破れ、額には蹄鉄の刻印が打たれた状態だ。
唯一の核兵器被爆国であることから、導入に抵抗があることは当然のことだが、その封じ込めにすべての教育(小、中、高校)から単元を除去し、かわりに鉄腕アトムなどの「明るい未来提示」に注力した(あえて引用や参照もしない・・)ことはあまりに残酷だ。私の家庭環境は極めて特殊だったおかげで、標準以上の核教育(晩飯のおかず)は受けられたが、一般的環境では何の知識も得られないだろう。
結果、庶民は放射能についての知識も与えられていなければ、察知の方法すらない。伝え聞く漠然とした恐怖のみが支配する世界・・・これを呪いと言わずして何を呪いと言えばよいのだろう。おまけに信じるべき科学者や政府、事故当事者はいずれも真実を隠し、「状況」を説明しようともしない。
それどころか誰一人、見に行くことすらしていない(・・・この点で、米国などから非難されている・・・死は必至なのだが・・・いつから死を恐れるようになったのか・・・KEK野尻女史のブログのタイトルのように、戦場であることの自覚に欠けている・・・やられっぱなし・・・呪いは祟りに昇格しつつある)。誰が昇格させようとしているのかは明らかだ。
被ばくとその危険性の判断はどこまでも自己責任と言い切るならそれもよかろう。ならば、国家、知るものの義務として、最低限の知識と検知技術の普及をはかるべきではないか。そのどちらも無いところへ「自己責任」はありえない。あるとすれば国家、知る者の犯罪だ。
とりあえず私は当面アーティストの立場で、知識と検知技術の普及に身を投じたい。
2011年6月28日 Y.Utsunomia