'96年から'01年までの間、年間2回のペースで宇都宮が高貴寺にて開催していたライブ・シリーズがある。このイベントは当初は高貴寺の企画による自主イベントであったが、2回目には早くも運営上の致命的問題に直面、そこで企画主体を宇都宮に移管し再生を計り、以後最終回である11回目まで宇都宮の音楽実験実証プラントならびに教育機関として有効に機能した。
この2枚組CDはその証しとも言うべき記録物で、最終回最終日の本番を余すところなく収録したものである。出演は志村哲(古典尺八)南澤靖浩(シタール)出口煌玲(龍笛)鈴木昭男(磐笛)宇都宮泰(空間音場演奏)であるが、いわゆる全員のセッションではなく各ゲスト演奏者対宇都宮の問答を献奏する形式で進行している。これは3回目以降のすべてのライブに共通することであるが、同時にこのライブ・シリーズの最大の特徴でもある。
先に著したように、このライブ・シリーズは実験実証プラントと位置付けられたものであり、経済性や売名を目指したものではなく、毎回のように新たな演出やデバイスを投入してきたが、その真の目的は新たな(あるいは本来の)価値の創成であった。運営にあたっては、あらゆる事柄が意味を問い直され、その結果無意味と見なされた事柄はことごとく切り捨てられた。
例えば実務としてのPAの概念も問い直されたものの一つで、会場を満たす音量や音色、セッティングから、さらにはシステムそのものの要不要までが厳格に規定されていた。つまり1トンを超える物量がセットアップされていても必要性が認められなければ、全く使用されないこともあるし、セッティングそのものに対してスタッフが疑問や無意味さを感じた場合は、気の済むまで手直しすることが許されていた。
会場内にスピーカから出力された音は、「スピーカの音」としてではなく、直接「生の音」と比較評価されていたし、スピーカを使用するからと言ってスピーカに音が定位することは許されなかった。定位が許されるのは、原則として演奏者位置にのみである。使用されていたスピーカーに至っては磁石の製作から振動系に至るまで徹底的に検討され実用されたが、これらのことはどれひとつとってみても一般のイベントでは困難なことである。
このCDでもその思想は徹底され、各演奏者の入れ替わる間の無演奏部分も全て収録されている。つまりライブとは単に人間の演奏者の発する楽音だけではなく、その主体はその「場」における時間の流れそのものであると意味付けたことから、無演奏部分も主体にとって重要な要素であると判断されたからである。その判断の有効性はこのCDが実証している。
この最終日はCDを聴けば分かるとおり激しく雨が降っているが、各演奏者は「場」の構築係である宇都宮とセッションしているが、それ以上に雨ともアンサンブルしている。この「場」に於いて観客はどしゃぶりの中で「そっとかいま見る者」であり、演奏は本来の捧げ物としての機能を取り戻している。そこには観客に対するサービスなどという低次元の思わくなど微塵もなく、それこそが最高のもてなしなのであり、このライブの主体なのである。
2002年 宇都宮 泰